揆の章
―――仮面の魔導士―――(揆(き)―はかりごと。またはやり方、方法)


"彼"は"誰"だろう?
 近衛騎士団所属、シルフィス・カストリーズ少尉は、遥か先の小高い丘の上に立つ二人の人物を困惑しながら眺めていた。
 野営地は、夕餉の前の喧騒に沸き返り、連合軍のそれぞれの場所で、夜の準備が始まっている。
 そんな慌しい中、小柄で華奢な姿を夕日に染めながらも、なお鮮やかな金髪に深緑の瞳を持つ美貌の騎士が、涼しげな雰囲気を纏って一点を見つめている様を、他の兵士や騎士が、通り過ぎる度にちらちらと横目で眺めて行くのだが、どうやら自分のことにはとんと無頓着らしく、ただ一心に丘の上へその眼差しを向けていた。
 丘のあたりはダリス反乱軍の割り当てとなっている。夕日を反射して煌く金髪は、そのリーダー、ダリスの廃太子アルムレディン・レイノルド・ダリスであると知れる。シルフィスが注目していたのは、しかし彼ではない。その傍らに影の如く佇む少し小柄な人物であった。
 すでに初夏に近い陽気であるにもかかわらず、すっぽりとマントのフードを被り、本当の影のようにひっそりと立つ。アルムレディンの傍を片時も離れず、常の護衛を受け持つ魔導士と聞いてはいるが、それ以外は同軍の者達すらも知らないらしい。
 "彼"がはじめて姿を見せたのは、クライン皇太子セイリオスと、アルムレディンとの同盟の締結の儀であったと聞く。
 やはり今と同じく全身をマントに包み、他国とはいえ高貴な身分の列席する場であっても、フードも取らず、あまつさえその面には奇妙な仮面をつけていたという。敵の攻撃から自分を庇って酷い火傷をした為だと、廃太子が従者の無礼を詫びたらしい。君主自らがそんな言い訳をするなどかなり異例のことであり、当初その魔導士の正体について、いろいろな憶測が影で飛び交った。
 人前では一言も発さない態度と、男としては小柄な部類に入る体格から、寵愛する妾姫に男装させているのではないか?等と言う者まで居て、さすがにそれは一笑に臥されはしたものの、片時も傍から下げない様子に、あながち穿った話ではないのかも知れないと、噂は傾き始めていた。
 得体の知れない魔導士。
 シルフィスは両軍が合流し、進軍を始めた当初、彼を垣間見た時から、"彼"が意識の端に引っ掛っていた。
 ふと気がつけば、その姿を探し、見えた瞬間から目が離せなくなる。
 "彼"が誰なのか?
 それが頭から離れない疑問。
 根拠の無い望み。
 打ち消すように首を振る。だが、視線は歩み去ろうとしている影に据えられたままである。
 そして、もしや、と望む。
 どうすれば確かめられるのだろう、"彼"が、『キール』だと。

 キール・セリアンが連れ去られる様を、シルフィスは何も出来ずに見送った。
 先走ったガゼルを探し、山中で遭遇した盗賊が逃亡の祭、何も知らずにひょっこりと顔を出した彼を人質に取ったのだ。
 驚愕の表情で盗賊の腕に捉えられ、当て身を受けて崩折れていく姿が、今でも焼けるような焦燥とともに思い出される。
 追い縋ろうとした目の前で、移動魔法により消えていく二人へ、シルフィスは悲鳴をあげるように名を叫んでいた。
「キール!」
 やっと、森を歩けるようになったばかりだというのに・・・
 やっと、立ち直ったばかりだというのに・・・

 秋の始め、魔法実験の失敗により、大怪我を負った彼は、一月ほど床につき、どうにか通常の生活に戻り始めていた。
 悪質な悪戯により失敗させられた実験の挫折感も克服し、残した研究を続行させようと、多少の無理を押して、回復に努めようとしていた。
 そんな矢先の出来事だった……

 あれから半年。どれだけ手を尽くしても、彼の行方は、僅かな痕跡すら掴めない。彼の兄、アイシュ・セリアンへ、なんと報告したら良いのやら、自分の不甲斐無さに臍を噛む日々が続く。
 あの、常に何処かしら不機嫌な、それでいて真っ直ぐな視線。知性と直感で物事の本質を見抜くあの瞳を、もう一度見たかった。
 たとえ実験動物程度にしか思われていないとしても、若草の瞳に自分が再び映されるのを望んでしまう。
「キール……」
 聞こえる筈の無い影へ小さく呼びかける。
 儚い願いが胸を焦がす。
 不意に丘の上の"彼"が立ち止まった。僅かなフードの動きが、振り向いたように思える。
「まさか……」
撥ねる心臓を押え、期待しすぎる自分を戒める。そう、これはただの偶然。現に"彼"の向こうで、アルムレディンが何かを指し示している。"彼"はそれで振り向いたのだろう。あまりに期待を持ち過ぎるから、何もかもを都合よく思い込みたがっているに過ぎないのだ。
苦笑して首を振り、思わずため息を漏らした時、身体の中心を貫くような疼痛が走り抜けた。
「っ……」
きつく両肘を抱え込んで耐える。"彼"いや、キール・セリアンの事を考えていると、時折襲ってくる奇妙な疼き。
 丘向こうへ二人の影が消えるのを見送ると、シルフィスはよろめくように、すぐ傍の天幕の下へ飛び込んだ。そこは荷馬車に天幕をかぶせただけの資材置き場だったが、その荷車の底へ潜り込み、もう一度自分をきつく掴む。
「嫌だ・・・」
 まるで胎児のように転がりながら、身体を駆け抜ける疼痛に耐える。
「嫌だ・・・まだだ・・・まだ駄目なんだ・・・」
 疼きの理由など、とうに判っている。
 体が内側から変わっていく。
 分化。
 生別未分化で生まれ、思春期の始めにそれを分つ。アンヘル族の尤も特異的な性徴。
 既に成人年齢である16歳も過ぎたというのに、未だ分化の兆しが見えず悩んでいた自分。長く待ち望んでいた筈の変化だったのに、今のシルフィスには、死刑宣告のように感じられる。
 何故なら、この変化は、自分と彼を繋ぐ最後の切り札のはずだったから。
 創造魔法への糸口として、アンヘル族の観察をしたい。初対面で自分を実験動物扱いした青年が、必ず兆しがあったら教えろと、念を押していた分化を、彼が見て居ない場所で、彼が居ない時に、終えるわけには行かない。終えたくは無い。
 この変化は、彼に見て貰いたいのだ。
 もし、彼が戻ってきたとしても、分化を終えた自分に、もう興味を失うかもしれない。ただの知り合いとして、あの視線の対象外へと、理没していくのかもしれない。
 それが嫌だった。
 自分の中に、こんな浅ましい想いがあるのが、惨めに思えた。
 それでも、心は止まらない。
「キール・・・くっふ・・・・っ・・」
 こみ上げる嗚咽を、歯を食い縛って飲み込みながら、シルフィスは変化を押しとどめようとするかのように、更に力を篭めて己を抱きしめる。
 荷車の底で髪を振り乱し、苦悶に見を捩るその姿は、まるで羽を毟り取られた金色の鳥を思わせた。


「誰だ?」
夜警の見回りをしていた兵士が、野営のテントの間を音もなく歩く影に、誰何(すいか)を浴びせる。声を受け、槍を突付けられて、その動きが止まるのを確認し、兵士は人影に歩み寄った。
「こんな時間に何をしている?何処の部隊の者だ?」
規則に従って、職務質問をしながら、相手が魔導士なのに気が付き、ほんの少し声を掛けてしまったのを後悔する。
兵士は、得体の知れないこの連中が嫌いだった。戦闘中、防御や遠隔攻撃、怪我の治療等を受け持ち、重宝であると思いはするものの、意志の力で自然を捩じ曲げ、呪文を詠唱して念じた物を具現化させていく。
なんと世の理から外れた連中であることか…
「所属部隊を言え!」
尻込みがちな気持ちを誤魔化すように、声を張り上げる。
しかし影は何も反応を返しはせず、その場に立ち止まったまま深く被ったフードの陰から、じっとこちらを見つめているような気配である。
 不気味な魔導士へ、それ以上近寄ることも出来ず、離れた所で風に揺れる篝火の揺らぎに、背後の闇がじわじわと形を変えるような気がするのを、落ち着かない気分で感じていた。
「おい、黙っていないで、何とか言ったらどうだ?」
 沈黙に耐え切れず、再び兵士は声を荒げた。
やはり返らぬ応えに、恐怖の裏返しの怒りが込み上げる。
「この…魔導士風情がお高くとまりやがって…さては、ダリスの間者だな」
 口走ってから、きっとそうだと合点が行く。でなければこんな夜中に、資材置き場をうろつくわけが無い。そう思った瞬間、頭の中が真っ赤になった気がした。憎悪が腹の底から湧きあがってくる。 たとえ違っていても知ったことか。こんな気持ちの悪い奴なのが悪い。人の問い掛けに答えないこいつが悪い。殺されたいのか?ああ、望み通り殺してやる。槍に斯け貫いて、その鮮血を見ればさぞ気持ちの好いことだろう。
残虐な妄想が次々と浮かび、血の予感と陰惨な喜びで次第に息が荒くなり、笑みに歪められた唇を、ねとりと舌が湿らせる。
 兵士は魔導士の喉下を狙って腰溜めに繰り出そうと、槍を持つ手に力を篭めた。
「…何をしている?」
 背後から寄越された静かな声に、パリンと何かが砕けた気がした。
 不意に周りが明るくなり、まるで風に煙が吹き散らされるように、暗い感情が霧散する。兵士は目を瞬いた。
「え・…?」
 ぱちぱちと篝火の薪が軽やかにはぜる音が、寝静まった天幕の間に響いている。
 最善までの激情は何だったのか?ぼんやりと気の抜けたようになりながら、自分の考えていた事に改めてぞっとし、悪夢からの救い手を探して、彼は声のした方へ振り向いた。
 春の宵は風も無く、肌寒ささえ感じないほど穏やかな佇まいを見せている。そして、その静寂に溶け込むように、槍を携えた一人の騎士が立っていた。
「…クレベール少佐…」
 精悍な長身が闇を背景に浮かび上がり、深青の眼光に射貫かれるかの如き錯覚を持つ。だが、それが暗い妄想に飲み込まれかけていた自分にいまだ纏わりつく、闇の残滓を切り払ってくれるような気がして、兵士は安堵の溜息をつく。
「そんなところで、何をしている?」
 もう一度騎士が尋ねてきた。
 兵士は慌てて背筋を伸ばし、直立の姿勢を取った。上官から質疑を受けたときの礼儀である。
「はっ!夜警巡回中、不信な行動をとっているこの者を見かけましたので、職務により問質していたところであります!」
肩越しに魔導士を指差しながら上官へ答えた。
しかし、騎士は不信げに眉を顰める。
「誰にだ?誰も居らんぞ」
「は?」
言われて振り向けば、そこには天幕に揺れる篝火の光と夜の闇があるばかりで、あの闇から染み出してきたような魔導士の姿は見当たらない。
「あ…あれ?」
 慌てて周りを見ても、どこへ消えたのか、もはや気配すら感じられなかった。
「いや…あの…魔導士がさっきまで…」
 呆けたように後ろを指差す兵士に、騎士は小さく首を振る。
「まあいい…夜警は重要な任務だ、気を抜かず勤めるように」
「はっ」
「行け」
 軽く顎をしゃくられて、兵士はそのまま騎士の前を辞した。
 まるで何かに化かされたようで、釈然としないまま、見送る騎士の視線と、不気味な体験をした場所から早く遠ざかりたくて、兵士はそそくさと歩く速度を速めた。

 歩み去る兵士を見送り、天幕の影に消えるのを待って、レオニスは手にした槍を無造作に天幕の影に突き刺した。
「出て来い・・・」
 低い命令に、影が揺らぐ。
 篝火の火影とは違う、明らかに意思のある何かの影。
 騎士の鋭い眼光の前に、それは黒い魔導士の姿を浮かび上がらせていく。
「穏形の術か。お前は何者だ?」
 魔導士は、槍で地面に縫い付けられた外套の裾を無造作に引っ張った。布の裂ける音と共に槍から解放される。
 レオニスには答えずに、魔導士がしたのはそれだけだった。
 無言で見据える騎士へ、影よりも静かに、魔導士の黒い姿が火影に浮き上がる。
「答えぬのならば、間者として切り捨てる」
 ことさらゆっくりと腰に下げた剣に手を添える。
 カラリと魔導士の足元に何かが転がり落ちた。
 それが奇妙な文様を刻んだ仮面であると見て取った時、かすかな溜め息のような声が、耳に届く。
「ずっと・・・会いたかった・・・」
「何?」
 訝しく思い顔を上げると、魔導士の深くかぶったフードが払い除けられる。
 火影に浮き上がる亜麻色の髪。
 夜目にも鮮やかな、翡翠の瞳。
 繊細な面差しは、記憶にあるよりもなおほっそりとし、幾分長くなった髪がそれを縁取り、更に妖艶さを醸し出している。
「キール殿・・・?」
 半年前、盗賊に連れ去られ、行方を絶っていた緋色の魔導士がそこに居た。
 透き通るような白い肌。形の良い唇が赤く色づいて、ゆっくりと動く様が、扇情的に視線を惹き付ける。
「貴方に・・・会いたかった・・・」
 低く掠れた声に、ぞくりとするほどの艶を感じて、騎士は一瞬己を疑う。
 じっとこちらを見詰め、密やかな動作で歩み寄る姿から目が離せない。
"彼"に対してこんな感覚が湧き上がるなど有り得ない。騎士として、いや、男であるならば、同性に対して持ちえるはずの無い欲望。
「呼んでいた・・・貴方を・・・」
 囁きの度に背中に走る戦慄は、甘い痛みとなって全身に響き始める。
「・・・何故?」
 かろうじて発した言葉に、艶やかな笑みが返された。
 理性を打ち砕くかのような衝撃。傾国の美姫もかくやと云わんばかりの妖艶さ。
 レオニスは大きく息をついて、なんとかやり過ごそうとした。
 が、そこに追い討ちがかけられる。
「ずっと・・・想っていた・・・」
 白い手が頬に伸ばされる。ひんやりとした感触が、他国にまで名を馳せた剣豪の動きを奪い取る。
「やめろ・・・」
 何かの術だ。
 かろうじてしがみつく理性の奥で、騎士としての習性が警告を鳴らす。だが、体はそれに反応しはしない。
 翡翠の瞳に射貫かれ、薄い唇の動きから目が離れない。
「なんで?・・・やっと会えたのに・・・」
 頬から手が滑り、ほっそりとした腕が首に絡められる。
「ずっと・・・こうしたかった・・・」
 甘い息が吐き出され、陶酔にも似た眩暈を感じる。ゆっくりと迫ってくる赤い唇に、呆然とした視線を投げかける騎士へ、魔導士がことさら艶めいた含み笑いを洩らす。
 むしろそれが、レオニスの正気を引き戻した。
 握り締めた柄に力を篭め、横薙ぎに引き払う。
 瞬間、驚いたような魔導士の表情と共に、視界が暗転した。

 パチパチと爆ぜる篝火の音に、騎士は油断無く周りを見回す。
 しかし既に何の気配も無く。彼は大きく息をついた。
「あれは・・・なんだ?」
 剣を収め、額を流れる汗を拭い、今しがた自分を捉えかけた異様な感情を振り払うように首を振る。
「あれは・・・何だ?」
 力無く繰り返しながら、何か得体の知れない思惑が動き出しているのだと、直感が発する警告を、心の中で自分に言い聞かせる。
 そうでなければ、有り得ない。
 己を取り戻そうと。レオニスは殊更に再び大きく息を吐いた。

「それな、『魅了の術』っつ〜もんじゃねぇか?」
 兵士と自分に起こった異常を、天幕内に陣取る総司令官に伝えた騎士は、不本意な大笑いに晒された末、どうにか答えを返された。
「魅了の術、ですか?」
 クラインの総司令官。皇太子から全権を託された筆頭魔導士は、畑違いの軍の指揮を将軍達に文句を言わせぬほど見事にこなして見せていたが、相変わらずの軽口がレオニスの神経を逆撫でする。
「そ、普通は女魔導士が使うもんなんだがな。相手誑し込んで、思い通りにする術だよ」
 厳つく寄せられた騎士の表情に、筆頭魔導士の愉快そうな笑みが寄越される。
「でもな。何で相手がキールなんだ?そっちの趣味でもあるのか、お前さん?」
 にやにやと揶揄するように、琥珀の瞳が弓形になる。騎士の眉間に更に皺が刻まれた。
「自分には判りかねます」
 苦虫を噛み潰した表情に、さも可笑しいと笑いが弾ける。
 ひとしきり遠慮無く笑い転げた後、その笑みがいきなり不敵なものにすりかわった。
「だがな、お前さんが持ってきた気配は、すげ〜邪悪だぜ」
 腐り切っていた騎士に、鋭い視線が突き刺さる。
「邪精霊の気配だ。そいつ、ろくなもんじゃね〜ぜ」
 女好きな昼行灯の評判や軽口、飄々とした態度に惑わされ易いが、この魔導士が抜け目の無い男なのをレオニスはよく知っている。そしてまたその魔力の高さも。
「よく退けたな。そのままだったら、今ごろは、お前さんの姿をした傀儡が出来上がっていたぜ。一旦邪精霊に魅了されたら、殺すか大元の魔導士を何とかするしかねぇ。やだぜ、お前さんなんかとやりあうのは」
 あくまで軽い口調で肩を竦めながら、異常事態に考え込んでいる騎士へ、不敵な笑みのまま頷いた。
「とにかく、下手に警告発令して、軍を混乱させるわけにはいかね〜よな。ま、とりあえず、魔よけの護符でも配布して、その魔導士に最初に会った兵士に、さりげなく監視をつけるぐれ〜しか、今のところはやる事無いな」
「は!」
 順当な判断に同意を示すと、再びくつくつと含み笑いが洩らされる。
「まったく、ふざけた真似してくれるぜ。その魔導士、どこの野郎か見当はついてるんだろう?」
 おそらく同じ人物を思い浮かべているであろう筆頭魔導士に、レオニスは重々しく頷いた。
「あの、評判の魔導士かと・・・」
「ああ、あの王子様、何企んでやがるんだろうな。そもそも初めから目つきが気にいらねぇ。それにあの仮面野郎・・・案外、引っぺがしてみたら、ホントにキールかもなぁ。あははは」
 天幕の内に再び笑い声が響く。だが、その琥珀の瞳には、一片の愉悦も既に浮かんではいなかった。


揆の章 了